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Hana花房のいけばな教室

黄色いいけばな いけばなの起源については、いろいろな説があります。
そのひとつは、「依り代(よりしろ)」が発展したものという説。
日本では、昔から高い樹木や大きな石などに、神が降りてくるという信仰があり、神事の際に常緑樹などを高くかかげて、神を招く習慣がありました。
もうひとつは、仏教の渡来とともに、仏前を荘厳に飾る供花(くげ)が伝わり、これがいけばなに発展したというものです。
古来日本人は、植物に対して独特な観念をもっていました。
例えば『日本書記』(720年)には、「草木ことごとくによくものをいふことあり」という記述があり、古代人の植物との深い精神的な交流をうかがわせます。
花が咲くことを、豊作の前兆ととらえたり、花や若枝や常緑樹の枝を身につけることが、幸福や長寿を招くとして、祭事には植物がさかんに用いらてきました。
幸福や長寿を招くとして、祭事には植物がさかんに用いらてきました。 八百万に神が宿るとする、日本人の根底にある想いがいけばなの発展につながっていったのでしょう。

『時代により変化をとげたいけばなのスタイル』
				~文化の変容を背景に発展した各流派の花々~

室町時代に書院造りという建築様式が確立され、書院造りの床の間に飾られた「たて花」が最初のいけばなの形です。いけばなの歴史とその発達の過程は、この「床の間」と深いかかわりがあります。
「床の間」という座敷を飾る専用の空間ができ、掛け軸や香炉がなど置き方が規定され、この時代は花もまた床の間を飾る美術品同様にとらえられていたのでした。

立花の登場

立花 室町時代は日本の芸術史上、特別な意味をもっており、能楽、茶の湯がこの時代に生まれ、絵画、建築、庭園などが大いに発達し日本の美の新たな基準を生み出しました。
この文化をリードしたのは、文化の領域にまで台頭してきた武家階級です。
その担い手となったのは、同朋衆(どうほうしゅう)という芸術集団。
彼らは将軍家や有力大名にひきたてられ、新しい芸術を生み出しました。
その中に、いけばなにすぐれた才能を発揮する立阿弥(りゅうあみ)、文阿弥(もんあみ)が現れました。
そして、いけばなも「たて花」の流れを受けてさらに発展しました。
また、この当時には大陸との交易から得た珍重すべき文物を見せ合う「花合(はなあわせ)」や「七夕法楽(たなばたほうがく)」という会が盛んに行われました。
陳列、装飾された室内には器物も並べられ、その器物をよりよく見せるために花がいけられました。
また、同朋衆と並行して、池坊専慶(いけのぼうせんけい)という立花の名人が現れ、立花というスタイルは池坊が中心となって深められていきます。

茶花と投入花

茶花 室町時代から安土桃山~江戸初期にかけて立花が発展していきますが、それと対極な位置にある「茶花」が生まれます。
禅の思想と結びついた「わび茶」が生まれ、千利休がこれを究めていきました。 千利休が究めた「茶花」は茶室の一隅に一輪か二輪の花を用いた「投げ入れ形式」の花でした。
単純化され尽くし、小型化された極めて象徴性の高い花でした。
茶花は、立花が大型化する一方、いけばなの究極的なあり方として、現在に至るまで長く影響を与え続えてきました。

立花から立華、そして生花へ

あじさいのいけばな 立花は江戸期に入り「立華(りっか)」と改められて町人の間にも広まっていきます。多くの花伝書が出版されるなどして、「立華」は、ますます大衆化されていきました。
しかし次第に豪快な創造性や造形性を失い、煩雑華美なものとなっていきます。
そして、この立華を受けて登場したのが「生花(せいか)」です。
生花は立華と投入花の中間をとった三角形の骨格をしていて、そのシンプルで理論化したスタイルが特徴的で、一般の人々の間で爆発的に流行していきます。
この時期に多くの流派が誕生し、家元制度も確立されていきます。
生花はいけばな史上、例がないほど流行るのですが、ほどなく生気を失い、形式化し、遊芸となって幕末、明治維新を迎えます。

盛花の登場、現代へ

盛花 明治初期に入り、いけばなは勢いを失いますが、明治政府が婦女子教育の一環として取り上げることで人々のいけばなへの関心が回復します。また、この政策により、男性中心だったいけばなの担い手が、女性に移ることになります。
この時代は、より西洋のものを生活に取り入れようという時代でした。 この風潮を受けて、小原雲心(おはらうんしん)により、洋風の草花を取り入れ水盤を使った「盛花(もりばな)」が考案されました。
時代の気運にマッチした盛花は、新しいいけばなとして広く流行しました。
そして、いけばなは現代へと突入していきます。


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